佐渡をドライブしていると、時折立派な銅像や、気になる石碑を目にする。

先日真野から赤泊へ向かう途中、徳和という地域で見つけたのがこちら、戦道騎馬武者の像。 


実物大位の大きさか、かなり大きい像である。

佐渡戦道騎馬武者の像

地域の人だろうか、周辺をキレイに掃き清め、掃除していた。

佐渡戦道騎馬武者の像看板

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戦道(たたかいどう)騎馬武者の像

今から四百年余り前の戦国時代の末期、天正十七年(千五百八十九)六月、越後守護春日山城主上杉景勝の軍が佐渡へ攻めて来るという大事件があった。

 それに先立つ数年前まで、上杉謙信は川中島で甲斐の武田信玄と戦を繰り返していた。しかし途中で急逝すると、その養子景勝と景虎の間で跡目相続の争いつまり「御館の乱」が起きた。

両軍の誘いに加勢せず、事の成り行きを傍観していた佐渡は、結局勝ち残った景勝に成敗されることとなる。
当時、河原田と羽茂は、佐渡の二大勢力だった。前者は領内に鶴子銀山を有し、後者は西三川砂金山を支配していたので裕福だった。

沢根から上陸した上杉軍は、まず河原田城を落とし、羽茂に向かった。羽茂城主本間高貞の義弟で出城でもあった三川の腰細城主本三河守高頼は、羽茂に援軍を送るべく出立した。しかし、これをいち早く予知した上杉勢は、黒金安芸守尚信の率いる一群を川茂街道に回して、行く手を阻止した。そのためこの街道が戦場となり、後に戦道と呼ばれるようになった。

多勢に無勢、百戦錬磨の越後勢を相手にして勝てる見込みはなかった。武士の義を尊ぶ三河守は妻子に離縁状を渡し、討ちてし止まんの決意で、槍を手挟んで鞍に跨った。

 その時、敵軍の中より進み出た一騎、刀を抜いた安芸守は、馬上より名乗りを上げた。これに応えて三河守が名乗ると、両軍は鐙を蹴って刃を合わせた。かくて合戦の火ぶたは切って落とされた。時に六月十五日巳の刻。空は日本晴れだったという。

向かって右側、刀をかざしている方が黒金安芸守尚信。左側、槍を手挟んだ方が本間三河守高頼。

平成八年三月 佐渡市 (案内看板より)

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陣屋も併設されていた。

佐渡戦道陣屋

陣屋のなかは、休憩スペースに。

佐渡戦道陣屋の中

新潟県人物小伝 直江兼続(花ケ前 盛明著) の“佐渡平定”のページに書いてあるものを読むと、

「城主本間高茂は弟の赤泊城主 本間三河守高頼とともに逃亡したがとらえられ、国府川原で斬殺された。」
とあり、その中に記される「文禄三年定納員数目録」によると、羽茂城(佐渡市羽茂本郷)に黒金安芸守を配置した。 とある。

別の文献「佐渡志」では 国府(佐渡市竹田の雑太城付近)に黒金安芸守尚信を配置した。
とあり、諸説まちまちのようであるが、これらをみると向かって右側の黒金安芸守尚信がこの戦いに勝利したようだ。

歴史は深く、難しい。

佐渡には、3億年前の石があり、平安・戦国・江戸など各時代を思い起こさせる史跡が数多く残されている。
そんな旅をしてみるのも面白い。


戦道騎馬武者の像

所在地:新潟県佐渡市徳和


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